統一教会の信者に対する、拉致監禁・強制改宗について、その根絶を求めます。被害者の声。後藤徹 陳述書 驚愕!12年5ヶ月にわたる拉致監禁
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被害者の声


陳述書

後藤 徹 - 驚愕!12年5ヶ月にわたる拉致監禁 -


巣鴨警察署長殿

陳述書(要約)

2008年4月2日

1.略歴

私、後藤徹は1963年11月2日、山形県米沢市で後藤家の次男として生まれました。1983年4月、日本大学理工学部建築学科に入学し、87年3月、同大学を卒業。同年4月、大成建設株式会社に入社しました。

2.統一教会への入会

1986年8月、大学4年生だった時に既に統一教会の信者になっていた兄の紹介で、統一教会に入教しました。その後、続いて妹も入教しました。

3.第1回目の監禁

1987年5月頃、兄が西東京市の自宅に帰った時に、家族らによって監禁されて、統一教会の信仰を捨てるように説得を受けました。説得したのは株式会社タップという広告代理店を経営している宮村峻という人物です。当時、宮村氏は、荻窪にある日本イエスキリスト教団荻窪栄光教会の森山諭牧師と協力して、同教会を拠点に複数の統一教会信者の父兄等から、彼らの子供を脱会させる依頼を受けていました。宮村氏が組織していた父兄らの会を水茎会と言い、同会では自分の子供を脱会させることに成功した父兄が、他の父兄らの脱会を手伝うというシステムができあがっていました。
 兄は統一教会を脱会した後、宮村氏が経営する株式会社タップに就職し、同氏の活動を手伝うようになりました。
 1987年10月、私は兄から新宿に呼び出され、京王プラザホテルの一室に入りました。中には両親が待機しており、私は兄から信仰を捨てるように説得をされました。気がつくと、部屋の入り口のドアは何らかの細工により固定され、部屋から出られない状態になっていました。私は一方的に監禁されたことに憤慨して両親及び兄と取っ組み合いになりましたが、取り押さえられました。その後、宮村氏が統一教会元信者を数人連れて部屋に来るようになり、棄教を迫られました。約1週間後、ホテルから杉並区荻窪のマンションの一室に連れて行かれました。このままでは外に出ることができないと思った私は、信仰を捨てた振りを続け、脱出する機会をうかがっていました。 11月下旬頃、両親及び兄によって監視される中、荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加させられた時、トイレに行く振りをして教会建物から脱出し、統一教会に逃げ帰りました。

4.第1回目の監禁から脱出後の経緯

再び監禁されることを恐れた私は、大成建設を退社して、教会活動に専念しました。 1988年末頃には、妹が両親と兄によって拉致され、脱会しました。1991年、兄は東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわゆる「青春を返せ裁判」)を提起して、統一教会から賠償金を得ました。
 1992年8月、私はAさんという統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しましたが、Aさんは後に家族らによって監禁されて、統一教会を脱会してしまいました。
 1993年頃、兄は兄嫁と結婚しました。兄嫁も親族に監禁されて、宮村氏と日本同盟基督教団新津福音キリスト教会の松永堡智牧師から脱会の説得を受けて脱会した統一教会元信者です。彼女も1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起して、賠償金を得ています。
 1995年8月、私はBさんという統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。

5.第2回目の監禁

  • 新潟のマンションでの監禁
    1995年9月11日夜、東京都西東京市の自宅に帰宅した時、両親、兄、及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって両脇を抱えられた状態でワゴン車に連れ込まれました。ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り込み、見知らぬ男性が運転して新潟に向かいました。途中、トイレに行きたいと訴えましたが、トイレに行くことは許されず、ビニール製の携帯用簡易トイレで用を足しました。
     新潟のマンションの部屋は、全ての窓がストッパーで固定され、玄関は内側から施錠されていました。両親、妹、兄嫁が常駐して私を監視し、棄教を迫りました。兄は「この問題を解決するまでは絶対に妥協しない。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける」と言いました。また、前述の松永牧師も度々訪れて説得を試みました。
     1995年12月末、信仰を失った振りをして脱会届けも書きましたが、1987年の1回目の監禁の時にも同じ方法を使ったので、信用してもらえず、監禁が解かれることはありませんでした。
     1997年6月22日、癌を患っていた父が65歳で死去しました。
  • 東京のマンション(1カ所目)での監禁
    父の死後間もなく、ワゴン車で西東京市の自宅に移動し、父の亡骸と対面しました。その後都内のマンションの3階か4階の一室に監禁されました。玄関ドアは内側から特殊な鍵がかけられていました。また、窓からの脱出は不可能でした。
  • 東京のマンション(2カ所目)での監禁
    1997年12月末頃、母、兄夫婦、妹及び見知らぬ男性らによって再度ワゴン車に乗せられて、荻窪フラワーホームというマンションの804号室に連行されました。玄関のドアは内側から鎖と南京錠で開かないようにされてあり、全ての窓は専用の鍵によって施錠されていました。ここでは、母、兄、妹、兄嫁が私を監視しました。
     2年以上も信仰を失った振りをしていたにも関わらず、監禁が解かれなかったために、我慢の限界を越えてしまい、804号室に監禁された直後に信仰を失っていないことを表明しました。家族は偽装脱会するのは不当だと言って私を非難しましたが、これに対して私は、家族が行っている監禁や棄教を強要することこそ不当であり、人権侵害であると強く抗議しました。
     その後、私は脱出を試みて玄関に向かって走り出しましたが、兄が力ずくで私を取り押さえました。
  • 宮村氏による脱会説得
    1998年1月上旬から同年9月頃にかけて、宮村氏は元信者等を引き連れて804号室に来訪し、棄教を迫りました。宮村氏は「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出して欲しければ家族に言え」と言いました。兄は「本当ならぶん殴って半殺しにしてやるところだ」などと絶叫したこともあります。また、妹は「こんな調子だったら一生このままだから覚悟して」と脅迫しました。
     私を含め、家族の数人がインフルエンザにかかった時も、私は病院に連れて行ってもらえず、家族が病院でもらった薬を飲まされました。
     宮村氏は徐々に同室に来る回数が減っていき、1998年9月を過ぎるとしばらく来なくなり、元信者だけが訪れるようになりました。私が残しておいた記録によれば、1998年9月頃までの間に宮村氏が同室に来た回数は73回でした。
     2000年1月頃、新聞を支給してもらえるようになりましたが、同年6月頃からはそれもなくなりました。
     同年2月、押さえがたい不安感に襲われた私は、玄関に突進して脱出を試みるようになり、その度に家族から取り押さえられながらも「警察を呼べ」「弁護士を立てて訴えてやる」と叫びました。家族は布団で私をくるみ、口を押さえつけました。このため、私は息が出来なくなり、窒息しそうになることもありました。揉み合った時に右手薬指を捻り、骨が曲がってしまい、痛みが2ー3カ月間続きました。
     私はどんなに力づくで脱出を試みても取り押さえられる上、更に厳重な監禁状態になってしまったことから、虚脱感と絶望感に襲われるようになり、遂に力づくでの脱出を断念しました。
  • ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)
    2004年4月、私は21日間のハンガーストライキを決行し、長期間の監禁に抗議しました。この頃から兄嫁が私の顔を平手打ちするという暴行が9月頃まで頻繁に繰り返されました。兄嫁も手のひらを痛めたらしく、長期間にわたって右手親指の付け根に湿布を貼っていました。ハンガーストライキの後半には、歩行が困難となり、トイレで立って用を足すことができなくなりました。
  • ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)
    2005年4月、韓国語の教材を持ってきて欲しいという要求が拒否されたことをきっかけとして、第2回目の21日間ハンガーストライキを決行しました。ストライキが終わっても、その後7カ月間は粗末な食事しか出してもらえませんでした。
     監禁中に水虫を発症したのですが、最初は薬を支給してくれたものの、2006年頃からは要求しても支給してくれなくなり、右足親指の爪が変形したままとなりました。
  • ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)
    2006年4月、ノートを持ってくるよう要求したところ、家族が拒否したため、今度は30日間のハンガーストライキを行いました。ところが、ストライキ終了後、食事を出してもらえず、私が頼み込んだ末、家族は翌日から重湯少々とポカリスエットを薄めたものを出すようになりました。このような流動食のみの食事が70日間続いたため、私の体は痩せこけ、餓死寸前の人のようになりました。私は家族等の目を盗んでは、炊飯前の水に浸してある生米を少しづつ抜き取って食べ、餓死を免れました。
     同年7月上旬頃、食事を戻すよう頼みましたが、最初の4カ月間はおかゆが続き、普通の食事になったのは4カ月目以降でした。
     同年9月、兄嫁がテレビのアンテナケーブルを持って行ってしまい、以降はテレビもビデオも見ることができなくなってしまいました。
  • 監禁からの解放
    2007年11月頃、兄嫁は「この部屋を維持するのにどれだけお金が掛かっていると思っているの」と言って私を非難しました。監禁が長期に及んでいるため、経済的に苦しくなり、家族の間でも監禁をこれ以上継続するか否かで意見が分かれ始めていたようです。それでも監禁中は、最低2人で私を監視し続けました。
     2008年2月10日午後4時頃、兄夫婦、母、妹の4人が私に対して「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け」と言って突然退去を命じました。私の体は著しく衰弱しており、財布など所持品は返して貰えず、室内着のまま、玄関前のコンクリートの廊下に押し倒されました。その後、家族の誰かが私の革靴を投げつけてきました。
     歩いて教会本部に向かう途中、交番で電車代を借りようとしましたが、事態を要領良く説明できず、浮浪者と間違えられたためお金を貸してもらえませんでした。偶然に出会った統一教会信者にお金を借り、タクシーに乗って教会本部に到着しました。
     その日の夜中に病院で診察を受けたところ、栄養失調と診断されて、同病院に緊急入院しました。入院当初は独力での歩行ができない状態でしたが、リハビリを続けて何とか杖を使わずに歩けるようになり、3月31日に退院しました。

6.最後に

信信仰を捨てさせるために12年5カ月間もの長期にわたって監禁し、集団で精神的・肉体的に虐待する行為は、拷問以外の何ものでもなく、絶対に許すことができません。私は人間としての尊厳を根底から否定されて、人生の貴重な期間を台無しにさせられました。
 ところが、監禁に関与した家族や宮村氏は一切の反省もなく、それどころか、宮村氏は荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠などで施錠されていたことを知らなかったなどと言って責任逃れをする構えを見せているのです。
 私が信仰を維持できた理由の一つは、監禁している側の残虐な行いを目の当たりにすればする程、統一教会に反対している宮村氏や私の家族こそが悪の権化であって、自分は死んでもあのような悪の一味には属したくないという思いを強く抱いたことと、不当な監禁現場からいつの日か必ず自由の身となって、この悪質な人権侵害を万人に訴えていかなければならないという使命感を強く持ったためです。
 巣鴨警察署長を始め司法関係者各位におかれましては、どうか、本件監禁に関与した全員を厳罰に処して頂き、自由と人権が認められる現代国家にあっては、このような残虐な行為は絶対にしてはならないのだということを、満天下にはっきりと示して頂きたいと、心より念願するものです。

以上

  • 我らの不快な隣人

    ルポライター米本和広氏が、拉致監禁によって引き起こされたPTSD被害の実態をレポート。

    ►第6章 掲載
  • 人さらいからの脱出

    世にも恐ろしい「人さらい事件」に関わった弁護士、牧師、マスコミ人らの非道な実態を実名で白日のもとにさらす。

    ►書籍紹介
  • 日本収容所列島

    いまなお続く統一教会信者への拉致監禁。小冊子やパンフレット、HP等で告知してきた内容をまとめました。

    ►書籍紹介

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